triggerhappysundaymorning

ガソリンスタンドに住みたい

蛹化の女

「つもりつもり」と徒に己がキモチを押し付けて悦に入るジコチューの「つもり」女こそが女の敵であることを証明しようw - 消毒しましょ!


特定の臭いを発散させるのがセックスアピールである世界を仮定する.


年頃の女性は特定の「気になるカレ」を落とそうとする時も,誰か素敵な王子様が言い寄ってこないか期待する時も
特定の悪臭を発散する事で自分が「お互いの合意のもとセックスする」用意がありますよ,とアッピールする世界.


人によっては単なる悪臭と感じるかも知れない.まあ腋とか耳の後ろ側あたりから分泌されるんだろうね.
年頃の異性にとってそれはある種の催淫作用を誘発するだろう.
臭いは当然無指向性のものなので,悲しいかなそれを届けたい人以外にも,付近にいる人は誰でも嗅いでしまうだろう.
その臭いを一生懸命発している人自身はその臭いを特定の自分好みの異性にだけ届けたいと思っても.


それはまあとっても危険な事であったりはする.
悪臭発する人はそれがリスクだという事を認識しているべきだし,リスクがあると気づいてない人には教えてやるべきだろう.
知った上でどう行動するかはその人次第.
これはリスクの有無を問題にしているのであって,決して臭いを発する事の「善悪」を説いているのではない.


だぶ☆すた

404のおっさんのChromebook批判が酷すぎて吃驚.思わずblog記事かいちゃう位に吃驚.


404 Blog Not Found:news - $350の公衆便所


"公衆便所"ですってよw.その理由として弾氏が主張してるのは

Chromebookには、ユーザーはいてもオーナーはいない。

ユーザーがownするものは、すべて梅田望夫の言うところの「あちら側」にあるからだ。

「盗まれても壊しても失うものはなにもありませんよ」ということは、「愛着をわかす理由もありませんよ」ということだ。

404 Blog Not Found:news - $350の公衆便所


と書いてる.
でもこの人別の記事では iCloud を大絶賛しててその時には「所有できない物に愛着は湧かない」とか全然思ってらっしゃらない様子なの.


404 Blog Not Found:news - iCloudの容量がたった5GB/IDで足りるわけ


itune match に至っては自分が手間暇かけてリッピングした音楽データを只のショートカットリンクにすり替えてちゃうんだよ?それなのに年額$25も取られちゃう.


嫌勿論これはデジタルデータに過ぎないのだからユーザが自由にアクセスできるのであればその保存場所がローカル記憶域だろうが web の向こう側だろうが関係ない.
そしてユーザデータがそうであれば原理的にソフトウェアや os も同様それがどこにあるのかと所有権となんの関係もない.


chrome os やそのサービス規約として「所有権はユーザにない」「貸与しかしない」とか決まってるのならそれは chromebook への批判ではなく os やサービスのけち臭さなんだからそれをもって chromebook の価格を非難するのは不自然に思える.


chromebook のキーボードがプア過ぎるとかハードウェア性能がソフトウェアに対してぜんぜん足りないとか造りがチャチいとかならその時に chromebook の価格の妥当さを問えば良い.


たとえば化石燃料が枯渇した未来でもヴィンテージフェラーリは一定の所有欲を満たすだろう.本来提供されるべき「運転の楽しみ」ってソフトウェア価値が完全に損なわれているにも関わらずですよ.


Eye-Fi Card ってあるじゃないですか.デジカメとかに突っ込むと撮影したデータをローカルに保存せずに WiFi で web の向こう側に保存してくれる奴.あれをデジカメに突っ込んだからってそのデジカメを所有する満足感がなくなっちゃったりする?ないない.


そもそも"「盗まれても壊しても失うものはなにもありませんよ」ということは、「愛着をわかす理由もありませんよ」ということだ。"って主張の根拠ってどこにあるのさ?


弾氏については元々マカーと認識してたが,その中では客観的な批評ができている人と思っていたのだが今回の酷いダブスタですっかり apple 側のポジショントーカーになってしまったんだなあと残念に思った.
なんつーかそうゆうとこから貰ってるお金にどっぷり依存しちゃってるのか知らん?とかあり得ない穿った見方を一瞬してしまう程に幻滅したわーw.

本編一切観ないで「魔法少女まどか☆マギカ」批評

アニオタ界隈ではエヴァンゲリオン以上,'10年代アニメの代表作とか傑作の誉れ高い作品のようで,確かにインターネット流し読みしてても他のアニメより断然言及が多く,オタ評論界隈も大賑わいなので一度も本編はおろか動画一切観たことない私も一発「批評」してみようという,かんべむさしの「水素製造法」ネタのようなお遊びで御座います.

  • 魔法少女と魔女
    • 思春期迎えた少女のみが契約によって魔法少女になれる.しかし魔法少女はその活動によって穢れて,その汚れがいっぱいいっぱいになると魔法少女の魂は敵である「魔女」を生み出す.
    • 魔法少女の魂「ソウルジェム(魂石)」は魔女との戦いや自身の負の感情によって濁り,やがて魔女を生むグリーフシード(悲嘆の種)になる.
    • 魔法少女は魔女を倒すために存在するが,これは宿敵ではなくそう言いつけられているだけである.そもそも魔法少女が存在しなければ魔女もまた生まれないのではないか?それとも魔法少女が穢れた結果以外にも魔女の発生はあり得るのだろうか?
    • 魔法少女に魔女と戦うよう要請するのはキュゥべえと言う生物である.彼らは思春期の少女の感情をエネルギーに変換することで宇宙の延命を図っていると自称している.


魔法少女はローティーンアイドルやアニメキャラのアナロジーであり,彼らを必要とするキモオタの皆様は彼女らに「清純さ」を要求する癖に彼女らを「性対象」として見ており性的な成熟を要求する.まあスマイレージのミニスカとかアニメ声優の外見とかそうゆう感じ.
ところがアイドル自身が性的魅力を自覚して髪を染めたり,恋人を作ったりする事はキモオタ達から忌み嫌われており,そゆ事が発覚した途端掌を返して敵として徹底的に叩かれてしまう.
またアイドルがどれ程注意深く性的魅力を自覚していることを隠し,キモオタの要求に応えようとも「大人」になってしまえば彼らから見限られてしまう.
魔法少女と魔女の関係はこれら現実のアナロジーであろう.そして魔法少女に理不尽な要求をするキュウべえはキモオタの皆様の象徴になろう.


この仮説に従うと好きな男子の為に魔法少女になった美樹さやかが本作品登場の魔法少女の中で最も早く魔女化した事の必然性も理解できる.彼女は最初から「不純」だったのだ.


アイドルの側から見れば,自分たちのファンが自分たちを必要としているだけでなく,自分たちを追い詰める存在であり,自分たちを消費してボロボロにする原因であると言う見解をファンタジーに落とし込んだ作品が本作なのであろう.これはオタにとってはとてつもないアンビバレンツであり自己を否定する結果に繋がりかねない.そのためこの作品を話題にするしかないのだろう.


入り口は可愛い魔法少女ものとして間口を広げ,途中からオタ大好きダークファンタジーに転じ,最終的にオタに自身の矛盾を突きつける,これは確かに問題作である.


さて,そうするとオチはどういう意味があるのだろうか.魔法少女が魔女化しない世界.その代わりにおっさんの姿の魔獣が跋扈する世界.少女が少女のために願った世界,其処ではキモオタが宿敵として魔法少女に狩られるのである.

不謹慎

赤いプルトニウム」というお笑いの人が「赤プル」に改名したと言うどうでも良い話を受けてそう言えば昔のバンドなんて不謹慎だらけだったよね,なんて思い浮かべようとしたのだが案外思い浮かばない.不謹慎な人達は色々思い浮かぶのだがバンド名辺りだと放射能関係は「原爆オナニーズ」位しかひり出せない.そんな事思い巡らしていたら急に「ゲンキ力爆弾」って脳に浮かんできた.



メルトダウンしてるんだかしてないんだかの今は勿論,平成の世ならこのタイトルだけで発禁にされかねないよねー(´・ω・`)とか思うのだけれども,当時問題になったという覚えがない.種ともこは「ないしょラブコール」って曲が気になって「いっしょに,ね」と言うアルバムを買った記憶があるのでそれなりに気にしていた筈なのだが.世界はその頃に較べてずいぶんと狭量になってしまったのだなあと独りごち.


wikipediaで調べるとこの曲は1989年に発表されているが,コレはチェルノブイリの3年後.何となくチェルノブイリよりも前だった気がしていたんですがそうですか.て事は完全にこのタイトルはあの事故を受けての確信犯だよなあ.楽曲自体は今こそ届けたい超名曲.


チェルノブイリ後の終末感てのが確かにあったのだけれども,この感覚は個人的には史上二回目.初回はウォッチメンでも描かれていた1970年代辺りの冷戦下のいつ原爆戦が起きてもおかしくない,そんな殺伐とした時代にひしひし感じてた憶えがある.ルースターズの「C.M.C」とかがその位だっけ?と思ったらこれは1983年なんで全然関係なかった.


チェルノブイリ後の80年代後期には,ポリティカルに傾倒してた佐野元春の「警告どおり計画どおり」(1988)や,レプリカのデビューアルバム「Tough & Free」に収録のタイトルそのまんま「APRIL 26th」(1988)とか,Theピーズの2枚同時発売デビューアルバムの片割れ「グレイテスト・ヒッツ VOL.2」に収録された「世紀末のうた」(1989)とか,どうしてこれ程ダメージ受けてた筈の日本がナイーブさに死にかけてなかったんだろうと思ったが,バブル景気の躁病に救われて切り抜けられたのかしら.


個人的には全然恩恵受けずにバイトとプー太郎に明け暮れて鬱鬱してるかやけっぱちの馬鹿騒ぎだった覚えしかもう脳味噌に残ってませんなあ.まあピーズのは元々のタイトルが「エイズ」だった筈なのでまた別の閉塞感なんだけど.でもまあ「♪チェルノブイリだの核だのなんだの」って歌詞に固有名詞が登場するからね.


そしてこの頃の躁鬱行ったり来たりをもっとも深く表現したアルバムがいとうせいこうの「MASS/AGE」.中でも「噂だけの世紀末」は本当にあの頃の僕の感じていた世界の空気を象徴していて,今聴いてもその気分に戻る事が出来る.僕はこの時期から10年間の楽曲で構成されているのだなあと今更ながらに気付かされた.そしてその当時の前後の記憶が相当に錯誤していてリアル筒井康隆の「昔はよかったなあ」だわ.どうしよう.


1900年代最後の10年間は期待した程世紀末感無くって皆拍子抜けしたけれども,ミレニアムから10年超えてようやく遅れてきた世紀末をちょびっとだけ感じるシーベルトだのベクレルだの.

ノビー

池田信夫「さあさあみなさん,この盾の堅いことと言ったら.どんなものでも貫き通す事は出来ないよ!」
池田信夫「さあさあみなさん,この矛の鋭いことと言ったら.どんなものでも貫通しちゃうよ!」
Twitter民「おいてめえ,じゃあその矛でとなりの盾を突いたらどうなんだよ?」
池田信夫「そんな事一度もいってない.ブロックしたから消えろ」


そもそもこんな↓見てくれのオッサンだぞ?(´∀`)w.みんな信用しちゃだめだよ.
http://media.tumblr.com/uIojWsJsRd3xuw0rtwe27CtH_400.jpg

故事

むかーし昔,追田と言う国に「差別する自由」を売る商人がおった.商人は道行く人々に自由をつきだして「さあさあ私が売るこの自由はどんな発言でもする事が出来るよ!」.それを聞いていた通行人が「なんだと!この差別主義者め!お前のような奴はとっとと死んでしまえ!糞レイシスト!」と罵ったところ,大層心外した商人が「なんという失礼な事を言うのです,あなたの発言は言論弾圧ですよ!私の発言の権利を侵害しています」と反論した.暫く商人と通行人の侃々諤々の論戦が続いたが,それをじっと見ていた男が二人の間にわって入り商人に質問した.「あなたの売る差別する自由と,あなたの差別されない権利を対峙させたらどうなる」.すると商人は一瞬ぐっと言葉に詰まったが,今度は辺り構わず往来の人全てに対して罵声を浴びせ出し,やがて捨て台詞を吐いて追田の国を方々の体で逃げ出しましたとさ.


...もっと上手に矛盾の話にかこつけれると思ったのに...onz

伝えたい心情は理解するけど流石にこれは詭弁に過ぎる.

Twitterのタイムライン眺めてたら有村氏がリツイートした呟きが物凄くて吃驚した.

「差別する自由」って、すごいな。差別的行為って社会構造と結び付いてるんだから、それに乗っかるということは自らの意思で行動することの放棄であり、むしろ不自由でしょう。「差別しない意思、差別しない自由」を手に入れようよ。less than a minute ago via Twitter for iPad


主張したい事は理解できなくもないんだけどこれは凄い詭弁.
「差別する自由」という物は多分確かに有って,しかしそれは別の誰かの権利と衝突する故に制限されているに過ぎない.
別に「社会構造」と結びつけなくても俺が勝手に決めた基準で誰かを差別する事は出来るように思われる.そしてそのような俺の勝手な差別はむしろ私を「社会構造」なる物から遠ざける事になるだろう.
嫌それ以前に社会行動に「乗っかる」かどうかの選択は自由意志だろう.自らの意志で行動する事を「放棄」するのもその選択は自由意志で行う事だろう.
多分この人は世の風潮に汚染されて気付いたら差別してしまっている自分が居るのだとしたら,自分の頭でよくよく考え直せよって言いたいのだろうけど,その結果「やっぱり犯罪者は差別されて当然」やらって結果になっちゃうかも知れないよね.
社会構造に結びついた差別だからと言って,その社会構造とやらから自由になったとして必ずしも差別しない事を選択するとは限らない.


「私の権利はあなたの自由で侵害される」<この文章は全ての人に当てはまる.ので私たちは自由と権利のバランスを取って,それぞれが最小限の制限で済むように法律を発明し,調整し続けているのですよ.他者を侵害する自由を詭弁を弄して不自由に変換する必要は全然ない.